ホーム > Dr.ブログ > No.089 「真珠湾」の教訓

  • 救急の場合
  • 診療時間
  • 面会時間
  • 人間ドック
  • フロアマップ
  • 川口正展のなるほどザ・メディスン
  • Dr.ブログ

No.089 「真珠湾」の教訓

2011/11/19

外は、めっきり寒くなり、あの12月8日が近づいた

「リメンバー・ザ・パールハーバー」 の合言葉のもと、米国は日本を卑怯者とみなす
もちろん、日本側にも言い分はある
しかし、真珠湾攻撃の是非に関しては、僕は意見を持っていないので述べない
戦争そのものが非人道的行為であると思うからだ

しかし、現代においても 「戦術・戦略」 は、戦争以外の至る所で必要であり、そういった観点から真珠湾攻撃作戦を眺めると、興味がある

真珠湾攻撃を立案したのはご存知、山本五十六である

ハーバード大学留学や駐米大使官付武官の経験を持つ山本は、米国と日本の国力の差を肌で感じていたので、対米戦を回避すべきとの立場を取っていた
しかし、自分の意に反して国家が対米戦争を決定した時、強国アメリカとの戦争を有利に進めるには、短期の局地戦で大勝利をおさめ、講和に持ち込む方法しかないと考えた
日露戦争の勝利が頭をかすめたのかも知れない
余談だが、山本は日露戦争に少尉候補生として参戦している

山本は米国の重要な軍事拠点であるハワイに着目し

奇襲攻撃によりハワイに駐留する米国艦隊を全滅させる作戦を計画した
敵主力艦隊を壊滅させれば、暫くの間、米国は動きが取れないだろうと読んだのである

山本は海軍内では一時、航空機畑を歩き、航空機の潜在能力を、誰よりも理解していたのだろう
山本の指揮の下、航空機は改良に改良を重ね、世界でも類を見ない性能を持った戦闘・爆撃機が誕生した

空母から飛び立った航空機により

爆撃、雷撃するという戦闘スタイルは、それまでの、戦艦同士の砲撃戦を作戦の基本とする立場と一線を画すもので、当時としては世界でも画期的だった
しかし、帝国海軍の内部では、当時でもまだ大和型の大型戦艦を建造するなど、巨艦巨砲主義は根強く残っており、航空機派はむしろ少数だった

真珠湾はもともと堅固な要塞のような湾であったが

日本軍は、作業員に扮した工作員をあらかじめ送り込んでいたため、米軍の軍事施設などの正確な位置等は、攻撃前の段階で、かなり正確に把握していたと思われる

結果論から述べれば

12月8日当日、たまたま真珠湾には米海軍空母はおらず、戦艦を数隻沈める戦果しか上げられなかった
これは、日本軍にとっては予想外の残念なことで、後で禍根を残す結果となるのだが、米軍にとっては、空母が無傷で生き残ったという意味でラッキーなことであっただろう
それでも、米国国内では、 「日本軍が本土に上陸する」 とパニック状態に陥り、ロッキー山脈で食い止めるべきか、もしそれに失敗した場合はシカゴで阻止するとの議論が真剣に行われたという

真珠湾奇襲攻撃による被害を目の当たりにした

米国はじめ列強、そしてもちろん帝国海軍自身も、航空機の重要性を改めて認識し、以後、巨艦巨砲主義は衰退し、米国も空母を主体とした航空戦に移行して行くことになる

さて、いくら奇襲といっても

やすやすと成功するような楽な仕事ではない
真珠湾は水深が12mと浅い
だから通常の高度から魚雷を投下すれば、魚雷は海底に突き刺さり、水面下を艦船に向かって進むことはできない
当時の標準的魚雷は、海面に投下されると60mほど沈んでから浮上し、水平進路で目標に達するように設計されていた
したがって、魚雷が着水後、海底に刺さらないで水面下を水平に進むためには超低空からの魚雷投下が必要となる

そのため、現場の指揮官らは真珠湾と地形が類似している鹿児島県志布志湾で、難度の高い超低空飛行訓練を繰り返した
その結果、パイロットの腕前は熟練の域に達したという
また、急遽、従来の魚雷を浅海面用に改造するなど、魚雷改良も同時に進められ、低空からの雷撃のめどがようやく立った

すなわち、「真珠湾」は入念な下準備のもと

満を持しての奇襲作戦だったわけで、その 「成功」 は たまたま運が良かったわけではない
これは平和な現代にも教訓を残した

すなわち、困難な事を成し遂げるためには、詳細な調査と最大限の工夫、万全の準備が必要であるという教訓である

 |