2012/06/21
両親からも、将来の仕事に関するアドバイスや指示を受けたことはなかった
小さな子供がよく口にする、 「将来は電車の運転士になりたい」 なども、思った記憶がない
父はバイク屋を営み、母は結婚前、教師をしていた
親戚を含めて、周囲には医者など誰もいなかったし、医業などというものに関心もなかった
祖父から、 「将来何になりたい?」 と聞かれたことがある
「何か答えなくては」 と思った僕は、何となく 「理学部に行く」 と答えた
咄嗟に口をついて出ただけの言葉であったのにも拘わらず、祖父は小学生の発したこの答えに、いたく感心していた様子だった
祖父は 「理学部」 を 「医学部」 と聞き違えたのだった
ホントかいな? と、つい思ってしまう
親の入れ知恵ではないかと勘ぐりたくもなる
ただ、その時の思いつきで、 「どうにかなるさ」 と、道を選んできた
単に、遊びが大好きな、何も考えない、子供だった
将来就きたい職業について書く欄があり、僕は、何となく、 「公務員」 と書いて、同級生から笑われた
当時、僕や、僕の周りのクラスメートは、公務員と工員の違いも知らなかったのだ
当時、入りやすかった農学部を 「何となく」 受験し、入学した
農学部在学中に、教員免許を取り、教育実習も、名古屋市内の名門、富士中学と決まっていた
この時、もし実習に行っていれば、中学か高等学校の理科の教諭になっていたことだろう
「何となく」 、法学部への転入試験を受けたことがある
もちろん、特に法律の勉強がしたかったわけでも、法曹関連の職業につきたかったわけでもなかった
ただ、学内転入の制度ができたことを知って、好奇心が湧いたことが、原因だった
、僕は、それに対して、全く答えを書くことが出来ず、結果は当然不合格だった
今でも、 「大正デモクラシー」 の詳細は知らないし、興味もない
あの時、もし、仮に合格していれば、きっと司法試験を受けて、何度も落ちて、結局は一般企業に就職していたことだろう
気がつくと、発酵化学研究室という所で、トリコスポロン属という真菌を相手に実験をしていた
化学・生物実験は、もともと好きであったので、その環境に僕は満足し、実験に没頭した
以前、インターネットで検索した時、その当時の僕の論文が出て来たのには、感激した
主任教授の、気難しい、神経質過ぎる性格を除いては
流れで 「何となく」 食品メーカーの研究所か、製薬会社に就職することとなる
勿論、博士課程に進み、大学の研究者として残る道もあったが、僕にはそんな才能はないことは、自分が一番知っていた
キリンビール、キューピー、日本ハム、サントリー、三共、明治製菓などに就職していった
優秀な同級生の中には、母校や、他大学の教授になった人もいて、今でもインターネットで彼らの活躍を知ることができる
それは、とあるテレビドラマを見た日のこと
主役の医者が、困難な手術を引き受け、見事、子供を助けるといった内容だった
今でこそ、医療物は多いが、当時はそんなドラマは稀であった
「仕事とは、人のためになるものが殆どではあるが、こんなにダイレクトに、人のためになる職業は他にあるだろうか」
と考えた時、 「自分は医者になるのだ」 と決めてしまった
突然の進路転換宣言に、当然、周囲は驚き、反対した人もいた
自分が長男であるにもかかわらず、家業の織物問屋を継ぐことなく、市の職員となり、それもやがて辞して、起業した
僕の父は、戦前、サラリーマンをしていて、教員免許も持っていたが、復員後は、全く関係のないバイク屋を始め、それなりに繁盛していた
だから、職業選択に関する自由奔放は、我が家の血筋なのかも知れないとも思う
地元の名門、旧帝大の名古屋大学よりも偏差値が低い、名古屋市立大学をターゲットに定め、見事 (偶然に) 成功し、入学できた
そして、僕は、人よりも 5年遅れて、でも クサナギ君より 7年早く、 30歳で医者になった
・ ・ ・ つづく
※ この文章は、 「長野醫報」 に投稿し、9月号に掲載されるかも知れない内容の一部を、改変し、加筆したものです