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No.161 30歳で医者になった僕

2012/06/21

僕は正直、将来、何をしたいか、何になりたいかなど考えたことがなく

両親からも、将来の仕事に関するアドバイスや指示を受けたことはなかった
小さな子供がよく口にする、 「将来は電車の運転士になりたい」 なども、思った記憶がない

僕の実家は医業ではなく

父はバイク屋を営み、母は結婚前、教師をしていた
親戚を含めて、周囲には医者など誰もいなかったし、医業などというものに関心もなかった

小学生の頃だったか

祖父から、 「将来何になりたい?」 と聞かれたことがある
「何か答えなくては」 と思った僕は、何となく 「理学部に行く」 と答えた
咄嗟に口をついて出ただけの言葉であったのにも拘わらず、祖父は小学生の発したこの答えに、いたく感心していた様子だった
祖父は 「理学部」「医学部」 と聞き違えたのだった

僕は、 「将来○○になりたい」 という人 (子供) を見ると

ホントかいな? と、つい思ってしまう
親の入れ知恵ではないかと勘ぐりたくもなる

僕は、人生のターニングポイントで、真剣に思い悩むことがなかった

ただ、その時の思いつきで、 「どうにかなるさ」 と、道を選んできた
単に、遊びが大好きな、何も考えない、子供だった

中学の卒業文集に

将来就きたい職業について書く欄があり、僕は、何となく、 「公務員」 と書いて、同級生から笑われた
当時、僕や、僕の周りのクラスメートは、公務員と工員の違いも知らなかったのだ

僕は、高校を卒業すると

当時、入りやすかった農学部を 「何となく」 受験し、入学した
農学部在学中に、教員免許を取り、教育実習も、名古屋市内の名門、富士中学と決まっていた
この時、もし実習に行っていれば、中学か高等学校の理科の教諭になっていたことだろう

農学部在学中には

「何となく」法学部への転入試験を受けたことがある
もちろん、特に法律の勉強がしたかったわけでも、法曹関連の職業につきたかったわけでもなかった
ただ、学内転入の制度ができたことを知って、好奇心が湧いたことが、原因だった

試験問題の一つに 「大正デモクラシーについて述べよ」 というのがあり

、僕は、それに対して、全く答えを書くことが出来ず、結果は当然不合格だった
今でも、 「大正デモクラシー」 の詳細は知らないし、興味もない
あの時、もし、仮に合格していれば、きっと司法試験を受けて、何度も落ちて、結局は一般企業に就職していたことだろう

さて、法学部に移ることもないまま

気がつくと、発酵化学研究室という所で、トリコスポロン属という真菌を相手に実験をしていた
化学・生物実験は、もともと好きであったので、その環境に僕は満足し、実験に没頭した
以前、インターネットで検索した時、その当時の僕の論文が出て来たのには、感激した

研究室での生活も楽しかった

主任教授の、気難しい、神経質過ぎる性格を除いては

しかし、さて就職となると

流れで 「何となく」 食品メーカーの研究所か、製薬会社に就職することとなる
勿論、博士課程に進み、大学の研究者として残る道もあったが、僕にはそんな才能はないことは、自分が一番知っていた

実際、当時の同級生で記憶に残っている人達は

キリンビール、キューピー、日本ハム、サントリー、三共、明治製菓などに就職していった
優秀な同級生の中には、母校や、他大学の教授になった人もいて、今でもインターネットで彼らの活躍を知ることができる

自然の流れに身を任せる体質の僕が、 「医者になる」 と決めた日がある

それは、とあるテレビドラマを見た日のこと

ドラマは心臓外科医の物語だったように記憶している

主役の医者が、困難な手術を引き受け、見事、子供を助けるといった内容だった
今でこそ、医療物は多いが、当時はそんなドラマは稀であった
「仕事とは、人のためになるものが殆どではあるが、こんなにダイレクトに、人のためになる職業は他にあるだろうか」
と考えた時、
「自分は医者になるのだ」 と決めてしまった

動機がテレビドラマという単純さゆえ

突然の進路転換宣言に、当然、周囲は驚き、反対した人もいた

しかし、僕の祖父は

自分が長男であるにもかかわらず、家業の織物問屋を継ぐことなく、市の職員となり、それもやがて辞して、起業した
僕の父は、戦前、サラリーマンをしていて、教員免許も持っていたが、復員後は、全く関係のないバイク屋を始め、それなりに繁盛していた
だから、職業選択に関する自由奔放は、我が家の血筋なのかも知れないとも思う

僕は医者の生活も、仕事内容も知らず、医学部をめざした

地元の名門、旧帝大の名古屋大学よりも偏差値が低い、名古屋市立大学をターゲットに定め、見事 (偶然に) 成功し、入学できた
そして、僕は、人よりも 5年遅れて、でも クサナギ君より 7年早く、 30歳で医者になった

・ ・ ・ つづく

※ この文章は、 「長野醫報」 に投稿し、9月号に掲載されるかも知れない内容の一部を、改変し、加筆したものです

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