2015/03/11
すなわち、人からどのように見られているかを知らない
たぶん客観的に自分を見ることはできない
そして、自分の考えている自分と、他者が見ている自分とは、少し~かなり異なっているはずである
テープレコーダーに録音した自分の声が、全く別の人の声に聞こえたのに衝撃を受けた
はじめは、テープレコーダーが壊れているのだと思った
これは、おそらく誰でも経験していることであろう
頭蓋内の骨伝導と、耳から入る音とのミックスであるから、他者に聞こえている自分の声とは異なるのが当然である
すなわちテープレコーダーに録音された声が、他者が聞いている自分の声そのものである
子供の時に、親に注意されないと、大人になっても直らない
たぶん、自分では気付かない習慣なのだろうし、大人に対して注意してくれる他者はいないからである
鏡を前にして食事をさせ、食事のときに立てる音を録音して、あとで聞かせることだという
せめて、ときどきは自分の会話を録音してみるとよい
自分の喋り方の特徴、会話内容、声のトーンなどがはっきりと分かる
そして、良くない部分を直せば効果的だ
他者の評価よりも高い場合、低い場合がある
性格によるところも大きいが、自分を客観的に眺めることの難しさゆえである
何かの授業で 「誰かさんからの手紙」 というものを書かされた記憶がある
差出人は無記名で、受け取り人を指定して、その人の印象を述べる手紙である
これは、自分の客観的評価がわかる機会となる
残念ながら、その時、自分がどのように書かれたかは、今となってはすっかり忘れた
しかし、教師も面白いことを考えついたものだと今でも思う
客観的に自分がどのように見られているのかを認識せよ、ということだったのだろう
という人 (と、自己評価している人) がいる
これは理想の人間像かも知れない
自分に厳しい人は、本来、他者にも厳しさを求めるのではないか
とすると、 「他者には寛大」 というのは、他者をすでに見放している、あるいは、 「他者に自分が嫌な人だと思われたくない」 という保身ではないのか
自己評価の第一歩は、自撮りならぬ、自録りではないだろうか?