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No.466 幸村

2016/12/19

今年、大河ドラマ 「真田丸」 が 長野県に及ぼした経済効果は 200億円と言われる

まあ、 「経済効果」 などというものは、算定の基準があるわけでもなく、多分に期待値をこめて発表されるものと 僕は考えているが、オリンピックや 万国博覧会の 「経済効果」 よりは、真田丸効果には信憑性がある

オリンピックや万博は

観光収入、建設投資などを総合して 「経済効果」 としているが、結局は 投資した分の回収ができているのか曖昧、さらに、大会終了後は 建造物の維持 ・ 管理などに、毎年多大な費用がかかることを考えれば、本当に 国家が儲かっているのかは怪しいこと極まりない

これに対して 「真田丸効果」 は、たとえ 200億円規模でも丸儲けということになる

なんてったって NHKが宣伝をしてくれているようなものだから 宣伝費用はかからない
設備投資としては 上田城内に造った 「ドラマ館」 の 建設費用くらいだろう


お金の話は これくらいにして

僕には 真田信繁 (幸村) に関して いくつかの疑問がある

その 1

秀吉子飼いの家臣でもなく、関が原で西軍に加担したために九度山に流され、しかし、その地で家族ともども地味ながら平穏な暮らしを 14年間も続けていた信繁

秀吉が死去して久しいというのに、何故、勝ち目のない大坂の陣に参戦したのだろうか
しかも、徳川側についた兄には 多大な迷惑がかかる行為と知りながら

その 2

江戸幕府が成立して十数年が経ち、幕藩体制が ほぼ確立していた当時、家康 1人を倒したところで 大勢は変わらないことくらい分かっていたはずなのに、大坂入城を果たし、牢人達をまとめていった理由は何か

14年のあいだ、世間から隔離されていたことで、徳川の世が 強固なものになりつつあることを身をもって理解できずにいた、いや、まだ 戦国乱世の感覚が 彼の心の中に強く根付いていたのかも知れない

その 3

豊臣家が たとえ少禄あっても、江戸幕府の外様大名として、あるいは、武士ではなく、文化人として生き残る道はあったはずである

秀頼の妻である千姫は 家康の孫娘で秀頼との仲も良く、また将軍秀忠の正室は 淀殿の実妹、織田信長の姪である
いってみれば 豊臣家と (織田家と) 徳川家は親戚同士

秀吉の主家、織田家が信長死去ののち豊臣家に臣従した例はあるし、豊臣家の生き残りを真剣に考えるならば、徳川幕府を相手に、無謀とも思える戦をする意義が どこにあったのか


信繁の 「家康憎し」 の感情は わからぬでもない

しかし、家康からみれば、 「信繁憎し」 は、それを遥かに上回るものがあったに違いない
だから、信繁が出てこなければ、大坂は 本気で攻められることはなかったのではないか
信繁が、秀吉の遺児 秀頼に 本当に忠義を尽したかったというのならば、家康と戦火を交えたことは 大きな間違いであり、信繁は 秀頼を窮地に追いやったことになる


ここから先は 僕の妄想に近い大胆な推量である

妄想であるから、幸村ファンは、まともに考えないでもらいたい

まず、信繁は

秀頼に忠義を尽くすことなど考えてはいなかった

信繁が 秀頼に再会するまでには 15年の歳月が流れており

15年前の秀頼は まだ幼少であったから、信繁は 成人した秀頼に大した思い入れはなかったはずだ

秀頼や淀殿、豊臣家の存続に関しては、彼にとっての関心事ではなかった

ただ、秀吉の実子である 秀頼の権威を利用すれば、自らの行動が 「忠義」 として正当化され、かつ 旧豊臣シンパの牢人達が 1つに纏まることを知っていた

信繁については

上田戦争や 大坂の陣での奮闘以外、あまり その活躍や実体は知られていない
しかし、彼は 武人としてのプライドが 人一倍強かったのであろう
九度山で老いて没するくらいなら、勝敗などには関係なく 武士としての最後の戦いをしたかった
彼は 武人としての死に場所を、大坂に求めたのである

そして、彼の身勝手とも思える生き方によって

大迷惑をこうむったのが 秀頼と淀殿、そして、戦死した 幕府軍の兵士ではなかったか


400年も前、しかも今はない存在である 「武士」 の 考え方や 価値観など、現代人の僕には 到底わかるはずもない

しかし、人の心というものは、たとえ数百年を経ても、案外変化していないような気もするのである

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