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No.015 僕の経歴 その3 教官篇

2011/01/11

2年間のS病院の赴任は終了した

S病院に心を残しながら、
僕は卒後4年目に母校の内科講座の教官 (当時は「助手」) となり、
以後15年間の長きにわたり、
研究、教育、臨床のいわゆる「3本柱」に従事することとなる

当時、
僕が所属していた医局では、
研究業績は評価されるが、
「3本柱」の建前はどこへやら、
教育、
臨床の実績などは全く評価の対象ではなかった

それでも、
自分は学生指導が好きであったので、
実習や講義には自然と力が入った

一般的に、
医学部の講義では、
学生出席率が低いのが当時は当たり前であった

ところが、
僕の講義は学生の出席率が高かった

寝ている学生もほとんどいない

僕は、
医学生の期待に答えるべく、
毎回、
いかに楽しく、
いかに確実に講義内容を理解させるか、
講義準備には相当の労力と時間を割いた

しかし、
1日の時間は限られている


外来、
講義、
実習、
実験、
論文書きをしていれば、
病棟診療に費やせる時間は、
自ずと少なくなる

したがって、
病棟診療のほとんどを、
医局研修医や後輩医師にまかせ、
夕方になって初めて研修医達とディスカッションし、
入院患者を回診した

僕が、
夜にしか病棟に現れないので、
ある入院患者は、
皮肉と抗議の意味を込めたのだろう
「ごきぶり先生」
のあだ名を僕につけた

患者の言うことはすべて正しい

正直、
当時、
僕は臨床医学を軽視した、
ただのごきぶり野郎に過ぎなかった

自分の中では論文のウェイトが最も大きく

論文が、
海外の一流医学誌の編集者によって受理され、
その知らせを受け取ることが、
当時の自分にとって最大級の喜びだった

患者の治療などは片手間仕事に過ぎなかったし、
そのことが正統と思っていた

ちなみに、
評価された論文も、
殆どが実験による研究であり、
現在の日々の臨床には全く役に立っていないが・・・・

僕は、
当時、
医学部付属病院という特殊な世界の中で、
「文科省の科学研究費をいかに多く獲得するか、
また、
いかに上質な論文を多く書くか、
これらが研究者たる者の最大の役割である」
と洗脳されていた

勿論、
研究者としてはこの姿勢は正しい

しかし、
自分が医師であるという本質は見失っていた

さて、
あたかも医者ではないような、
時間が止まっていたような生活を十数年も送った頃

我が医局の
「関連病院」
であるK病院のS副院長先生が定年退職を迎え、
後任を探すこととなった

講座のF主任教授は、
N助教授を指名したのだが、
Nはこれをかたくなに拒否したため、
白羽の矢は講師の僕に!

もっとも、
僕だって、
これを拒否することは恐らく可能であったろうし、
もし自分が承諾しなければ、
別の候補者もいたであろう

しかし、
今ここで
「医局の指示によって公式に大学医局から抜け出せる」
好機を逃すわけには行かないと思った

今の生活がこのまま続いていくことは異常であり、
研究生活から、
一切足を洗って、
医者として、
もう一度やり直したいと思った

かくして1997年4月1日

僕は奇しくも、
研修医1年目に代務として週1回の外来をおこなっていた、
懐かしいK病院の門をくぐることになる

K病院は、
新館が建ち、
すっかり近代的な病院に様変わりしていた

その日、
K病院の駐車場の東南隅にある1本の桜の古木が満開だったことを、

今でも新鮮に記憶している

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