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No.052 信長と秀吉

2011/06/27

H氏から本を借りた

H氏は歴史に造詣が深く、僕と、しばしば歴史談義に花が咲く

その本は、藤田達生著、「謎とき本能寺の変」

この本には、従来、ドラマなどで幾度となく取り上げられてきた本能寺の変とは多少異なる、いや、裏話とも言える、僕の知らない世界が展開されていた

1582年に起きた本能寺の変に関しては

ことが事だけに、信憑性の高い資料は残っておらず、ここから、光秀の謀反の理由については様々な憶測が生まれる

しかし、僕が興味を引かれたのは、光秀がクーデターに及んだ経緯や、背景ではない

織田信長という人物の戦術

織田軍団の形成、国家統一後の国家統治に関する斬新な展望である

これらすべて、おそらく、当時、どの戦国大名も考え得なかったことであろう

まず、本能寺の変直前の織田軍団は

五つの方面軍(柴田、明智、秀吉、滝川、神戸信孝)
そして信長直属の近習(堀、菅谷、長谷川、森、矢部ら)から成り立っていた

方面軍が判図を広げ、近習が畿内・周辺を固めるといった図式である

信長は、朝廷、公家、将軍、幕府といった

従来の権力構造を全面否定し、
若手の有能な側近を取り立て、
古参の大名は、功労者といえども、前線の領地に国替したり、追放したりして、新旧交代をもくろんだ

そこには情実が入り込む余地はなく、鎌倉時代から続いた封建制度からは一線を画する、政治的手法を最優先する姿のみがあった

大名の配置、国替えなど、これらの手法は、後世、家康も真似ることとなる

信長は全く新しい軍事政権をめざした

検地と、それにともなう石高表示を実施したのも彼である
これらの数値化により、領地の交換が容易になった

また、兵農分離を断行し、職業軍人は農民から独立した存在となり、常備軍ができた

本能寺の変直前には

かねてから同盟関係にあった家康をも臣下とし、彼は実質的な日本の盟主であった

横死してしまった彼の、全国統一後の国家経営計画は知る由もない
しかし、天才と呼ぶにふさわしい彼のことだから、国際社会の中での日本という観点からの展望を必ず持っていたはずである

本能寺の変により、日本の近代化は大幅に遅れたのかも知れない

信長、秀吉、家康は、しばしば比較される3人である

秀吉は、天下統一目前にして横死した信長の基本方針を継承した

太閤検地も、刀狩も信長の政策の延長だった

秀吉は、時代区分的には近世の武将ではあるが

そのスタイルは典型的な中世の戦国大名の1人だったと僕は思う
戦に勝つことによって領地を拡大し、
それを家臣に分け与えて、家臣を増やし、
自国の兵力の増強をはかるということが、戦国大名の大きな役割であった

秀吉は、幸か不幸か、戦国大名として大出世をとげた

それは、彼の情報収集能力の高さや、
状況判断の確かさや、
生来の「人たらし」の能力や、
すぐれた側近で周囲を固めたことや、
彼の強運のためだったのだろう

つまり、軍人としての資質は抜きん出ていた

しかし、やがて全国は平定され、戦はなくなった

その時、
秀吉は最高権力者の地位に登りつめていた
土民から身を興した彼にとって、一度手にした最高権力とは、実に魅力のあるものだったのだろう

天下統一後に、国家を安定させる諸策を実行する時間的余裕は、彼にはあったはずである
しかし、彼はあたかも、天下人となることこそが最終目的であったような行動を取り、
また、自分と、自分の一族の繁栄だけをひたすら考え、
民の幸せなど、関心事ではなかったようだ

民の幸せを考える領主は、むしろ、中世の小国のほうが多かったのではないか
それは、当時は国替えなどなく、土着の領主が多かったためだろう

織田軍団の一武将として

生涯の大半を、いくさに明け暮れ、
戦う技法しか学んでこなかった秀吉は、
信長とは異なり、諸外国の中での日本の位置とか、日本が富める国になる政治的手法など、知る由もなかった

・・・・と、門外漢である僕が、本から離れて勝手なことを書いてしまい

H氏にお叱りを受けるのではないかと心配だ

心配ついでに、さらに書けば

今の民主政権も、政権維持だけが関心事としか、
僕には見えない

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