2012/01/26
僕が大学医局に入局して2年後、 「内分泌を専攻したい」 と、同じ医局に彼は入局した
以後、不思議なことに、僕と、経歴の多くを共有することとなる
思い起こせば、彼と同じ職場で仕事をしたのは、この時だけで、あとはすべてすれ違いだったわけだ
真っ先に医療救護班に志願したのが KYであり、僕が後続隊として、彼と行き違いに神戸に向かった
この時だけは、順番が逆であった
KYは大学で准教授をしていたが、僕の要請に応じて、後任として KB病院に着任してくれた
そして、大半の勤務医がいずれは開業を目指す中、僕と同じように、まだ、勤務医を続けている
人望があり、後輩からは必ず慕われる
「旧第三内科の医局員の大半は彼が集めた」 と言っても過言ではない
僕は彼のことを 「人たらし」 呼ぶ
勿論、良い意味で
KY先生は、まさに 「空気の読める」 先生なのだった
きわめて稀な疾患だってぴたりと当てる
当然ながら、内分泌部門では中部地区に数少ないトップ・スペシャリストの一人であるが、内科一般、救急医療など、何でもこなす
僕のあまり好きではなかった実験 ・ 研究でも力量を存分に発揮した
「ペーパーメーカー」 と呼ばれ、発想力が柔軟で、研究論文を、いとも簡単に、しかも、短期間で一流の欧文誌にアクセプトさせる才能があった
頭が良いだけでなく、周囲の状況を見抜く力が冴えていた
彼の指導によって、多くの旧第三内科医局員が学位を取得することができたものだ
僕も彼と一緒に、しばしばスキーツアーに参加した
彼の滑降スタイルには、デモスキーヤーの華麗さはない
しかし、どんな斜面もこなす地元スキーヤー独特の、実用性の高い滑降であったと記憶している
それは、飲み会をこよなく愛すること、イベントごとが大好きであるということだ
親友というわけでもなく、言ってみれば、同じ戦場を駆け巡った、心から敬愛できる 「盟友」 である
幹部医師として、病院新築事業を推し進めていると聞く
僕は、そんな生涯の盟友と出会うことができて、本当に幸せだったと、心から感じる今日この頃である