2012/02/24
一度も他国に侵略されることなく、 2000年以上続いている国家ゆえのことなのか?
建国後、まだ 236年しか経ていない米国には、固有の文化、特に話芸は育っていない
米国発祥の文化と言えば、僕には、ジャズとカクテルくらいしか思い浮かばない
他の国には存在しない話芸がある
今は、お笑い人気が高くて、お笑い芸人を目指す人は多い
最後の M-1グランプリには、何と 5000組近い参加があったという
どの局でも、毎日、お笑い芸人の誰かが、トーク番組、バラエティーに登場している
漫才とコントの違いをご存知だろうか?
僕は、職場の同僚スタッフ 3名に、この違いを知っているのか聞いてみた
3人とも、この違いを正確に答えることはできなかった
母数が少なすぎるので、結論は出ないが、僕自身も含めて、一般に両者の違いを意識することなど、あまりないのかも知れない
2人の話術の掛け合いであり、基本は一人がボケ、もう一人がツッコミ
夢路いとし・喜味こいし、ダウンタウン、中川家などが典型的な 「漫才」 である
ある状況を設定した喜劇寸劇で、一人でもできるし、多人数でもでき、意外な展開の面白さが、観客に受ける
アンジャッシュ、ドランクドラゴンは典型的なコント
また、エンタの神様や、オンバトなどは、コント仕立ての芸が多かった
ネタ作りからネタ合わせ、そして演じるところまで、すべて自分達でしなくてはならない
そして、いくら観客に受けようが、一度演じたネタは、2度使えない
だから永遠に新ネタを作り続けなければならない
飛びぬけた創作能力と演技力が求められる
漫才やコントは、熾烈なクリエーター達の世界なのだ
ほんの一握りの人達だけが、一般に周知されるようになる
しかし、名前と顔とが一般に周知される頃には、彼らは本業である漫才やコントを、あまり演じなくなる
そして、MC(司会)、トーク番組、俳優業などで活動を続ける
新作を作り続けるのには、たいへんなパワーの持続が必要であることが、その原因の一つではないだろうか、と僕は思う
話芸という点では同じでも、定番の物語が既存していて、幾度だって、同じ演目を高座で演じることができる、いわゆる再現芸術だ
寄席の観客は、あらかじめストーリーとその結末を知っていながら、演じる落語家の名人芸に感銘を受ける
芸術の域に達しているが、腹の底から笑うものではなく、笑いの要素はあるが、おだやかなユーモアであり、落語家や講談師は喜劇役者ではなく、ストーリーテラーだ
日本人の漫才二人組がいた
しかし、文化の違いからか、笑いのツボが微妙に異なるらしく、韓国語での漫才も、韓国の人には受けなかったという
欧米人に漫才が理解されるはずがない
ボケとツッコミが絡む形式のどこが面白いのか、全く理解されないらしい
欧米人には、 「どつき」 などの、漫才につきもののアクションは 「幼稚な芸」 と写るという
欧米の喜劇のどこが面白いのか、理解し難いことは確かにあるし、笑いの質があまり高くないようにも感じる
アメリカンジョークだって、面白いと感じるものは多くない
そして、ブラックすぎて素直に笑えないものが多い
日本語には、微妙なニュアンスをあらわす単語も多く、英語訳が難しい場合もある
語彙が豊富な分、感情表現も細かい
だから、人間関係だって、アメリカのようにドライには行かない
このことの良し悪しは別として
漫才のコンペが毎年開催され、笑いのスタイルは常に進化し、観客が求める笑いのレベルも、年々高いものになってきている
すでに、日本固有の文化になった感がある
「毎日母さん」 ならぬ 「毎日お笑い」 である
毎日のように、お笑いや、お笑い芸人のトーク番組を見ているうちに、自然とユーモアのセンスが、少しながらでも身についてくる
この種のセンスは、日常生活でも結構役に立つもので、ユーモアは人間関係を円滑にする
体の免疫力が強化されると聞く
すなわち、感染症や、ガンにもかかりにくくなるかも知れない
だから、自分にはあまり関係のないような事件などのニュースを見ているよりは、お笑い番組で腹をかかえて笑っていたほうが、寿命が延びるのではないだろうか
笑えるトークバトルや、軽妙なツッコミ、質の高いお笑い芸が、 TVというメディアによって、お茶の間で毎日楽しめることは、本当に有難い