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No.147 清盛の成功

2012/04/25

平時忠は、 「平家にあらずんば人にあらず」 と言ったとされる

平清盛の人気がないのは、平家物語にある 「奢れるものは久しからず」 という一節にあると思う
清盛が 「奢れる人」 であったかどうかは誰も知らない
また、 「平家一門は栄華を極めた」 とされるが、その栄華は、僅か 10年ほどに過ぎない

清盛は

それまで誰も考えつかなかった 「貿易で富を蓄える」 という、新しい国家戦略を生み出し、武家でありながら、朝廷に貴族階級として参入を果たすなど、当時の革命児であったことは確かだ

永らく宮廷官僚の要職を独占し

天皇をも凌ぐ勢力を持っていた藤原氏は、清盛によって、その地位を追われた
そして、清盛は、それまでの、天皇家を頂点とした日本の権力構造そのものを、ごく短い間に、清盛中心の政治体制に変えてしまった

「清盛が武家社会を樹立した」 との見方もある

しかし、 「清盛は、藤原氏を権力の座から追い落とした」 と言ったほうが正しいのではないだろうか

清盛は

必ずしも戦国大名のように、武力で政権を奪取したわけではなく、巧みな外交戦略、心理作戦で、複雑怪奇な摂関家と天皇、上皇の間を泳ぎ切った
もちろん、その背景には、宋との貿易で得た巨万の富があった
すなわち、清盛は、その頭脳と経済力、先を見る目の確かさで、自分が権力の中心となった

清盛は

「武人」 というよりも、政治家、実業家と言ったほうがしっくりする
港湾整備などの公共事業も多く行った

清盛は

優しい人柄であったという逸話も多く残されている
戦国の世であれば、敗れた敵将の男子は殺害するのが常識であった
しかし、平治の乱の後、継母池禅尼の意見に従って、頼朝を処刑しなかったり、義経を殺害しなかった

しかし

その温情が平氏にとっては後に禍根を残すこととなる
清盛の没後、暫くして平家一門は、成長した義経率いる源氏軍に敗退を繰り返し、遂には壇ノ浦に散った

そして

皮肉にも、池禅尼によって助命された頼朝が、鎌倉に幕府を開き、本当の武家政権を樹立した

しかし

源氏の武士を中心とした政権確立は、朝廷や朝廷貴族を無力化した平氏の、いや、正確には清盛の活躍がなければ、決して成し得なかったことだ

平氏は奢っていたから源氏に敗れたのではないと思う

「時の運」 、 「時の流れ」 というやつだ

平氏は時代変革をなし遂げた

清盛が病没する頃には、その平氏の役割はすでに終っていたということだ

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