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No.162 30歳で医者になった僕 2

2012/06/25

余談ではあるが、卒後しばらくして

歴史の浅い、弱小医科大学出身の悲哀を存分に味うこととなる
僕の入学した名古屋市立大学は、戦後の女子医専をその母体とする、当時は高々 30年弱の歴史しかない大学であった

いっぽう、旧帝大の名古屋大学は

明治時代からの歴史を持ち、卒業生の数も圧倒的に多く、市中にある、殆どの有名病院の院長のポストを占め、関連病院の数も、きわめて多い

学閥中心の医者の世界においては

歴史のある名門大学出身であることが、圧倒的な有利な条件に決まっていた
愛知県で 「大学」 といえば、それは、名古屋大学のことだけを指した

僕は、楽な道を選ばず、たとえ浪人してでも

名古屋大学を目指すべきであったと後悔したが、遅かった

後になって、SLセントラル病院などで

名古屋大学出身の医師達と仕事をすることになるが、彼らは確かに 「できる」 医者たちで、懐も深く、 「名古屋大学」 が単にブランド名だけではないことを知った

名古屋市立大学の学生生活は、僕の肌に合っていた

クラスメートは皆面白く、個性豊かで、優しくて、人柄のいい奴ばかりだった
僕は、現役生よりも 5年、余分に歳をとっているので、皆からは、敬愛の念をこめて 「川口さん」 と呼ばれた
卒後 30年以上経った今でも、僕は相変わらず 「川口さん」 だ

教養部は 2回目なので

ドイツ語など何の苦労もなく、勉学そっちのけで、農学部時代よりも、一層アルバイトに精を出した

働いて対価を得るという経験は貴重で

単純作業のつらさを知り、トラックの荷造りのためのロープのしめ方 (「万力」など) 、球場の観客に飲み物を手際よく売るコツなど、普段学べない貴重な経験を積むことができた

卒業して、はじめて配属された大学病院の北 5病棟では

研修医は奴隷扱いだった
梅ちゃん先生の時代、大学病院のヒエラルヒーは、1.教授 2.婦長 3.医局員 4.実験動物 そして最後が研修医だったと聞いたことがある
つまり、インターンや研修医は、動物よりも下、大学医局の最下層だった

僕の時代は、さすがそこまでではなかったものの

研修医は看護婦長から馬鹿にされ、からかわれ続けた
ところが、僕は、老けて見えたせいか、初めの頃、看護婦からは研修医とは見られず、どこかの病院から帰ってきた一人前の医者と誤解され、他の研修医よりも丁寧に扱われた

この時は、 5年の遅れに感謝した

研修医の唯一のプライドは

点滴確保が一発で成功し、しかも途中で漏れないことだった
研修医仲間では 「今日は 10勝 3敗」 などという会話が交わされた
すなわち、点滴 13回のうち 10回成功したという意味である

僕は、あのテレビドラマを見ていなかったら医者にはなっていなかった

そして、学校の先生、サラリーマン、法曹関係者、あるいは、食品会社か製薬会社の研究所勤務になっていた可能性があるということになる

今、改めて考える

もう一度、人生がやり直せるならば、職業として医者以外に何を選ぶだろうか?

残念ながら、多少は世間を知った今になっても

「是非やって見たい」 という職業は見当たらない
人のためになる職業なら、何でもいい

いや、もしかしたら、 「人のためになる」 などど言うのは

単なる綺麗ごとであって、職業とは、自分が楽しければ、そして、少なくても、人の害にならなければ良いのだ
いつ、どこで、何の役に立つのかわからないような、趣味のような論文を書き続けている大学教授だって、いくらでもいるではないか

強いて挙げるなら、造園業

美しい庭を見ることが好きだから

あっ、これも、思いつきの、単純な理由だった

※ この文章は、 「長野醫報」 に投稿し、9月号に掲載されるかも知れない内容の一部を、大幅に改変し、加筆したものです

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