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No.165 校風

2012/07/06

僕が卒業した県立A高等学校は

その起源が尾張藩藩校の 「洋学校」 の愛知一中である
戦後、市立第三高等女学校と、統合して新制の高等学校となった

愛知一中といえば

東京府立一中 (現・日比谷高校) 、神戸一中 (現・神戸高校) とともに
「一中御三家」 の一角をなし、政党内閣を確立した加藤高明、文学者の二葉亭四迷、坪内逍遥など、数々の著名人を輩出した、歴史ある学校であった

別に自慢しているわけではない

A高校は、新制高校になっても、その伝統は守られ

今でも、愛知や周辺の県の中学の、成績優秀者達が集まる、進学校である

当時、生徒は

「個性豊か」 というか 「変わり者」 が多く、 「蹴落とされる奴、傷つく奴の方が悪い」 的発想が支配的で、皆、入学時から、すでに東大、京大を目指していた

学校側は、 「文武両道」 、 「全人教育」 を指導方針として掲げ

生徒の中には 「運動部に所属しなければ人でない」 的な発想が浸透していた
僕は、 「文武両道」 ならまだ理解できるが、 「全人教育」 とは一体何か、全くわからなかったし、教師達さえ、たぶん理解していなかった
「人品豊かな人に育てる教育」 ということだったのだろうか?

教師は、教科内容を教えるだけの存在で

まるで大学教授か、予備校の先生のようであった
「高校生を大人扱いしてくれているのだ」 「さすが中学校とは違う」 と思った

今思えば

高等学校ならば、教科以外にも、いろいろな教育はあるだろうに、僕の記憶の中で、教師は、ひたすら板書をしている姿しか残っていない

卒業式も間近、英語の最後の授業で

ある生徒が、何か人生に関わる質問をしたことがある
すると、その教師は「僕は英語を教えることだけしかしていないので、それには答えることができない」と言った

ある教師は授業中

「僕は東大まで出ているのに、こんな所で英語の教師をしていて、本当に情けない」 といった内容の発言をした
僕は 「高校の英語教師だって立派な仕事なのに、そんな思いで授業をしていたのか」 と残念な思いをした記憶が今でも鮮明に残っている

その高校で、僕は

700名程度の同学年中、テストの成績の順位は、下から数えたほうが早く、まさに 「劣等生」 と呼ぶのにふさわしい生徒であった
たとえば、入学して、確か最初の中間試験で、物理学が 7点 (もちろん 100点満点) で、自分ながら笑ってしまった記憶がある

数学も、西洋史も、古典も苦手だった

決して勉強しなかったわけではない
それなりに勉強をしてみても、学業成績は一向に上がらなかった
努力しても報われない
だから、学校の勉強にも興味がなくなっていった

教師が生徒達を前にして

しばしば口にした 「諸君は、やがて日本の指導者になるのだから・・・」
は、僕には空しく響いた
「僕には関係のないことだ」 と

今でも、高校時代の悪夢を しばしば見る

「数学の試験が迫っているのに、何も勉強していない、どうしよう!」
決まって、この夢だ

高校では友人もできなかった

というか、周りのクラスメートが、怖かった
「俺が、俺が」 の世界に、どうしても、なじめなかった

だから常に孤独で、高等学校時代の良い想い出は 1つもない

僕の人生では 「失われた 3年間」 であった
ただし、この 3年間で身につけた 「群れないで、1人で生きて行くすべ」 は、皮肉にも、唯一の成果と言って良いかも知れない

因みに、I 中学時代は

塾へ行くでもなく、普通に勉強していただけのつもりであったが、僕は、どの試験でも、 500人の学年で、常に 1位から 10位だった

中学 3年生となり

高校受験を控え、目標を A高校 に定めた
そんな高校とは知らずに

「すべり止め」 として、男子校のTK高校、地元の国立N大付属高校を受けた

今では全国有数の進学校であるTK高校を 「滑り止め」 とは、誠に失礼な話だが、公立をめざしていた僕にとっては、滑り止めに過ぎなかったことは否めない

結果は 3校とも合格であった

この結果から、僕は 「試験は受ければ受かるもの」 と、完全に舐めていた

でも、いざA高校に入学したら、この有様である

今になって考えると、

  • I 中学のレベルが低すぎたことと
  • 高校の勉強法が中学とは大きく異なっていたこと

を知らなかったことが、僕が劣等生になった 2大原因だったのだと思う


社会に出て知った

高等学校に 「学閥」 があることを

私立の進学校であるTK高校では、この傾向がとても強い

愛知県内のあらゆる組織の重要ポストには、TK高校出身者が浸透していた
医学部内にもTK高校出身者はいくらでもいた

だから僕は、TK高校出身者との付き合いが多い

TK高校出身者は、皆、明るく、男気があって、友人思いで、面白く、そして優しい
仲間意識が強いのも、十分うなずける
きっと、TK高校の校風や、教育方針が優れているのだろう

一方、僕の目から見る限り、 「A高校閥」 というものは存在しない

勿論、当時のA高校出身者は、現在、いろいろな所で指導者となっていて、自治体の首長や、国会議員、企業のトップに立っている人も何人か知っている

しかるに、当時のA高校出身者は皆

良い意味でも、悪い意味でも、どこか、その行動パターンが変わっていて (良く言えばユニークすぎて) 未だに僕は、彼らと、親しい付き合いができないでいる

僕の世代のA生は、何歳になってもA生で

権力には逆らい、協調性が少なく、一匹狼で、わが道を行く傾向がある
もちろん、これは僕が知っている範囲のA生を見ての視点であり、A生全員がそうであるはずもない

もしかしたら、自分も知らないうちに

そんな困った 「ユニークな傾向」 だけを身につけてしまっているのかもしれない

今になって再び問いたい

一体、A高校は、何をもって 「全人教育」 と銘打っていたのだろうか?

※ ここに書いたことは、あくまで、昭和 40年代の話で、現在のA高校のことについては全く知りません

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