2013/08/09
あの人が好き
この人が嫌い
多くの人が自分以外の人に対して、このような感情を持っているはずだ
それが、たとえ自分の家族であっても
しかし、もし、好き、嫌いに分かれる原因があるとすれば、それは一体何かと考えてみた
それは 「言葉」 ではないだろうか
その著書 「明智左馬守の恋」 の中で次のように記述している
「上役は、いつの世でも、言葉足らずか、一言多いか、で知らぬ間に部下の心を傷つける」
つづけて
「それが、時として上役自身の運命まで変えてしまう」
自分を評価する言葉を発する人を好きになるし、逆に自分に批判的な発言をする人に嫌悪を感じる
家族は、お互い遠慮がないから、相手を批判したり、否定する言葉を投げかけることがままある
だから家庭内では夫婦喧嘩や親子喧嘩が絶えない
そして、それが犯罪にまで発展することだってある
長く付き合っている仲間であればあるほど、互いの遠慮がなくなり、言葉を使って自分の思いを他者にぶつけ合うものだ
そこに好き、嫌いの感情が生まれる
嫌いになったり、好きになったりすることは、まずないのとは対照的だ
「言葉がいかに大切か」 という例をあげよう
僕は、検査のオーダー伝票を、いま確かに書いたはずであった
しかし、ナースは
「伝票が書いてないからお願いします」
と言う
確かに書いたはずだから、捜せばどこかにあるに違いない
しかし、捜している時間がもったいないので、仕方なく、再度新しい伝票に必要事項を書き込んだ
「先生、ありました」
そら見たことか、である
「あっそう」
「やっぱりあったんだ」
くらいが無難な所だろう
「伝票が一枚無駄になったね」
ナースはきっと捜していたに違いないが、たまたま見つけられなかっただけなのだ
だから、この余計な一言で、多分、そのナースは僕を嫌いになったことだろう
いつも顔を合わせている仲間だからこそ、つい気が緩んで本音が出てしまった
ごめんなさい
言わなくていいことを言うのは、決して賢くないと、すぐ気づいたが遅い
一度口から出た言葉は回収不能だ
この 「余計な一言」 を発しないためには、どうすればよかったのだろう?
そのナースが伝票を見つけられなかったために、ある程度の手間をかけて、再度、同じ伝票を書くはめになったことに対する小さな怒りがあった
「余計な一言」 は、そのイラつきを発散させるために、反射的に発せられたのだろう
こんな些細な出来事如きでは、イライラしないように自分の器を大きくすることだ
僕は人間が小さい
という姿勢がないと、人には好かれない