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No.348 東新記念病院・秋

2014/10/16

北信州の秋は早い

10月初旬というのに、夜などは、もう息が白い

室井銀次さんは、古くからの通院患者で、今年 85歳になる

ある日の夕方のこと

その室井さんが転倒して後頭部に瘤を作って受診した
意識はしっかりしていて、CTでも頭蓋内出血などは見られない

高齢者の転倒には注意が必要だ

運動機能の低下による転倒が多いのは確かだが、それ以外の転倒があるからである
失神、すなわち短時間の意識消失が高齢者ではなぜか多い
原因が特定できる場合もあるが、その多くは原因不明である

室井さんに関しては

何かに躓いて転倒したとするには状況が少し合わない
躓いたりし場合は前に転んで咄嗟に防御的に手をつくし、尻餅をついた場合は尻付近や手に擦過傷などがある
後頭部を強打する転び方は、いきなり無防備に後ろ向きに倒れることを意味し、瞬間的な意識消失が原因であることが多い

西澤明弘は室井さんを入院させて、経過を見ることとした

入院時の心電図は正常であったが

心原性の意識消失を疑って、念のためモニター心電図を装着し、四六時中波形を観察できるようにした


西澤が次の早朝、モニター心電図の波形記録チェックをしていると

午後 4時から 8時ごろにかけて、短時間ではあるが心拍数が 20程度に落ちることが何度も繰り返されていた
徐脈のときの波形は完全房室ブロックで、補充調律が出て、かろうじて心拍が保たれている

深夜勤の看護師が

「室井さん、ベッドから、トイレへ行こうとして、また転んだんですよ、昨日の夜」
と、報告とも雑談とも取れぬ、ごく何気ない口調で話しかけた

西澤はその時刻を看護記録により確かめて

記録されているモニター心電図を画面に出す
すると、案の定、この時記録された心電図波形は完全房室ブロックで、心拍数は 22であった

西澤は

徐脈ないし一時的心停止による脳血流低下による失神、いわゆるアダムス・ストークス発作が 今回の一連の意識消失発作の原因であると確信した
室井さんの失神の原因は心臓にあったのだ

一般に完全房室ブロックによるアダムス・ストークス発作は

ペースメーカー埋め込みの適応であるが、その場合、まず完全房室ブロックが起きている原因を考えなければならない

主な原因とされているのは

心サルコイドーシス、心筋炎、心筋症、高カリウム血症、高マグネシウム血症、それに内服中の薬剤などであるが、室井さんの場合、血液検査から血清カリウム値とマグネシウム値は正常であることが分かっている

そこで、室井さんの内服薬を見直すと

そこにはアルツハイマー型認知症に用いるドネペジルという薬が含まれていた

西澤はドネペジルの副作用として房室ブロックがあることを知っていたが、手元にある治療薬マニュアルを開き、あらためて副作用欄に目を通した

そこに書かれていたのは、 「重大な副作用」 として

失神、徐脈、心ブロックに続いてQT延長、心筋梗塞、心不全、消化性潰瘍、十二指腸潰瘍穿孔、消化管出血、横紋筋融解、呼吸不全、急性腎不全、悪性症候群など、
これでもか、と言わんばかりの恐ろしい病名の数々であり、最後のほうには 「原因不明の突然死」 の記載まである

副作用は多岐にわたるが

ドネペジルの作用は脳内でのアセチルコリンエステラーゼを阻害して脳内アセチルコリンを増加させることで発揮されるので、脳以外でもアセチルコリンが増えることがあれば、関連のなさそうな一連の副作用の多くは説明できる

アルツハイマー型認知症は近年多く見つかるので

西澤は普段、ドネペジルをしばしば処方していたが、こんなにも重大な副作用がたくさんある薬であることを改めて知り、愕然とした

今まで、さまざまな患者に使って特に大きな副作用が起きなかったのは運が良かっただけのことなのだろう

恐らく

この薬の 「重大な副作用」 の起きる確率は極めて低いのだろうが、起きれば事は本当に重大である

「現在ドネペジルは世界中で、ともすればやや安易に使用されてはいるが、このような重大な副作用のすべてを知って処方している医師は決して多くはないだろうな」 と西澤は考える

西澤は、その朝から室井さんへのドネペジル投与を中止し

イソプロテレノール (プロタノール) の持続点滴を開始した
イソプロテレノールは、心臓の房室伝導を促進するから房室ブロックを起こしにくくする

一般的に

病的徐脈の治療に用いる副交感神経遮断薬である硫酸アトロピンは、完全房室ブロックの治療にはあまり使う意味がないとされている
なぜなら完全房室ブロックによる徐脈の際は補充調律を出すため、目一杯交感神経のトーンが亢進していて、副交感神経のトーンは相対的に低下しているから、副交感神経抑制薬である硫アトを投与しても心拍増加には繋がらないからである

しかし、ドネペジルに関しては、

その徐脈作用がアセチルコリン過剰によっているのであればアトロピンは効きそうだ、と西澤は思った

室井さんは

プロタノールを開始してからは、房室ブロックや、それに伴う意識消失発作を起こさなくなった


ドネペジルの血中半減期を薬剤師の村本にたずねたところ

なんと 90時間程度ときわめて長く、同薬を中止しても数日間は体内にとどまり、副作用を出し続けるとのことであった
したがって、ドネペジルの投与を中止しても、プロタノールの持続点滴は、暫くのあいだ続けなくてはならない

ドネペジルを中止してから 5日が経った時点で

プロタノール投与を中止したが、房室ブロックはもう起きなかった

そして室井銀次さんは

ペースメーカーを植えられることなく、元気に退院していった

※ この物語は全くのフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません

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