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No.364 F先生のこと

2015/01/28

訃報が届いた

亡くなったのは、僕のかつて所属した研究室の F教授である

F先生は

今から 40年ほど前、確か 42歳で、新設の第三内科初代教授に就任された
一般に、 50歳代で教授に就任することが多かった当時、 F先生は、 「少壮教授」 として、学内の関心を集めていた
また、 F先生は母校出身のメジャー (内科、外科のこと) 教授第一号であり、我々の誇りでもあった

僕を含めて数名の新卒者が

2期生として入局したのは昭和 54年のことである
循環器を専攻するための研究室は他に 2つあったが、関連病院も殆どなく、診療体制や研究体制も整っているとは言いがたい、設立 3年目の医局を、僕らはあえて選んだ

まわりの人達は決して F教室への入局を薦めなかったが、

我々には寄らば大樹の陰などという観点は毛頭なく、新設されたばかりの医局を、皆で大樹に育てたいという思いや、いろいろな新しい試みを自由に試すことが出来るであろうとの期待が大きかった

臨床科の教授は

我々が学生時代は教師、そして、医局 (教授の主宰する研究室) に入局すると同時に上司という関係になる
すなわち、大学の医局とは、一般の職場とはかなり変わった社会のはずである

しかし、いざ入局してみても

F教授はやはり 「 F先生」 であり、学生時代と何ら変わらない師であり、同時にアニキのような存在でもあった
何でも気軽に相談できたし、アドバイスをいただいた
「自分はこれがしたい」 申し出れば、できる範囲で助力を惜しまれなかった
とにかく、 F先生は、若く溌刺としていて、新しく出来た医局を発展させることに情熱を注いだ

当時は

1年間の大学病院での研修医生活を終えると、 2年目からは市中病院に赴任して研修をするシステムであった
この時も、我々はいくつか提示された病院の中から自由に赴任先を選ぶことができ、 2期生は、皆思い思いの病院にちっていった


4年目から

僕は大学医局に戻ると同時に、正式に教員 (助手) に採用され (当時医学部の正規職員は、助手、講師、助教授、教授) 、研究、教育、臨床の混在した生活を始めることになった

F教授から研究テーマをいただき、実験のアイデアを教えてもらいながら、論文作成に励んだ

F教授は決して穏やかな性格ではなく、ややせっかちで、部下を厳しく叱責することも多かったが、不思議なことに僕は 1度も叱られた覚えがない

あるとき

担当患者が僕の診療内容について糾弾してきたことがある
このとき、 F教授は患者との面会で、僕を全面的に擁護して下さり、ことは収まった

F先生は、僕にはいつも優しい上司であり、教師であった


真に学究的な F先生は、

20年あまり教授をつとめ、定年退官された

しかし、 F先生の教授人生の後半は、決して安寧ではなかった

それは、 50代にして視床出血を発症したからである

しかし、数ヶ月の闘病生活、リハビリで復帰され、その後も不自由な足で研究、教育に、ますます精力的に取り組まれた

昭和 52年に発足した名古屋市立大学第三内科 (旧名)

毎年多くの入局者を迎え、大きく発展し、現在までに 200名以上の医師を世に出した

一昨年

F教授の教え子である 4期生の O先生が 3代目の教授に就任した

F先生は、たいそうお喜びになったことに違いない

僕の記憶の中の F先生は、若々しく、前向きで、いつも笑顔である

F先生のご冥福を、心からお祈り申し上げます

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