2015/03/16
毎回、俳優などの出演者が、テレビ局が調査した自分の意外なルーツを知り、感動する、といった内容である
今年 2月 28日が、父の生誕 100年であることを記念して、生前、父らが語った我が家のルーツについて、少し書いて置きたくなった
明治時代、家庭用燃料は、殆どが薪炭であった
祖父は、名古屋港の沿岸に店と倉庫を構え、陸揚げされる薪炭を手広く販売することで富を築いた
広大な邸宅を建て、別邸として使っていたようだ
僕は幼少時代、父とよく訪れた記憶がある
四方を石垣に囲まれたその家は、入母屋造りの 2階建てで、 10~ 15畳ほどの部屋が十五六あり、その中には 「女中部屋」 と呼ばれる部屋もあった
書院作りの大きな部屋が多く、電球が 100ワットではなく、なりの大きい 150ワット ( 200ワットだったか?) であったことを鮮明に覚えている
廊下は回廊になっていて、客間からは、東面と西面から、起伏をつけ、苔むした美し日本庭園を見渡すことができた
柱や床は檜材なのだろうが、すでに黒光りしていた
洋風の応接間があって、絨毯の上には赤いベロア地の応接セットが置いてあり、出窓からは洋風庭園を眺めることができた
僕はその部屋でよく遊んでいた
祖父は、僕の生まれる前に他界していたから、祖父に会ったことはないが、その応接間に掛けられたモノクロームの写真には、羽織袴姿の祖父が、精悍な表情ながら、少しぼやけて写っていた
祖父は、正妻との間に子ができず、別の女性 (昔なら側室、明治なら妾?) との間に子をもうけ、嫡男として認知した
それが、僕の父である
祖父は、正妻に気兼ねをしたのか、父を岡崎の寺にあずけ、父は両親の愛情を受けることなく、寺で育ったという
しかし、祖父は金銭的な援助を怠らなかったため、父は何不自由なく育ち、当時では珍しかった、英語の家庭教師をつけてもらい、やがて東京で大学生活を始めた
大学では馬術部に入り、夏には上高地に遊び、写真に凝り、自慢のカメラで撮影して大判に伸ばした日本各地の風景写真は、今でもアルバムにその多くが残されている
冬には、戦前の当時はまだ一般的ではなかったスキーに興じた
なにしろ、リフトもまだなかった時代である
友人とのツアースキーで遭難しかけたことなど、語ってくれたこともある
祖父の別邸には、祖父の正妻が住んでいて、僕をまるで孫同然に可愛がってくれた
義祖母は、父とも親しく話し、父は僕を連れて、毎晩のように 「駒場町」 に出かけた
そして、帰りは、必ずタクシーで送ってもらった
祖父の家には、拳銃や刃こぼれした日本刀があったという
父はそのあたりは、あまり触れることがなかったが、もしかしたら、祖父は、任侠の世界にも通じていたのかも知れない、などと、勝手な妄想を抱いている